前回は紹鴎や利休の頃から、茶席の建築様式が立派な書院造からシンプルな草庵様式へと変化していった話をしました。なぜそのような変化が必要だったのでしょうか。まず考えられることは、当時の社会に存在していた、人と人との間の身分の違いに対するきびしい序列や、格式というものへの抵抗があります。利休の心にある茶道では、身分などは最もよけいなもので、これを排除することが、どうしても必要であったということです。位の高い人たちは上段の間にすわり、下の人たちは下段や別室にすわるという書院式のへやでは、主客が一つになってお茶をいただくという心の結びつきは生まれません。思いきってへやを狭くして、どんな身分の高い人よりもさらに位の高い場所として、床の間をへやの上座に作り、そこに名高い禅僧の書をかけ、お茶を飲む人々は、上座下座の区別はあっても、同じ平面の上にすわることができるように工夫されました。さらに茶席は、お茶をたてていただくことのみに目的を限り、水屋(茶道用のキッチン)は陰に作り、他のすべての設備を、露地という庭の中に押し出しました。つまり、茶席という一つの独立した様式が生まれたのは、お茶をする人たちの心を日常のわずらわしさから完全に切り離す目的によったものだといえます。だからこそ茶席は、おもやから独立したものとなることが必要でした。そしてまた、いっさいのむだな飾りをすてて、できるだけシンプルに作ることによって、茶の心“和敬清寂”に自然に入っていけるようにしたのです。この利休が完成させた草庵様式の茶席は、現在までの茶室の主流となり広く世間にひろまりました。そして、多くの名高い茶人たちが創意工夫をし茶室を作り、日本中に名席といわれる茶室を残しています。

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