茶道を行なうためにできた建物を、一般に茶席とよんでいます。茶室といってもよいのですが、本来は、おもやから離れて建てられたものを茶席とよび、おもやの中に作られたものを茶室とよぶように、使い分けられています。現在では曖昧になってきていますが専門的にはこの様な区別があります。茶席は、初めからお茶をするためだけに作られた建物で、本来は“茶席”というものには、茶室のほかに水屋も腰掛待合も蹲踞/TUKUBAIも、そして露地という庭も付属していなければなりません。

書院台子式の茶が生まれた室町時代には、まだ、現在茶席とよばれているような、ほんとうの独立した様式のものはなく、多くは、座敷と客間の意味を含めてよばれていたようです。銀閣寺にある東求堂/TOGUDOは、そのうちでも最も完成されたものといえますが、戦国時代から桃山時代に移る間に、「茶座敷/CHAZASIKI」といわれたり、「かこい/KAKOI」といわれる茶室ができてきます。こうして、お茶をたてる場所は、しだいに他の建築物とは別な、違った様式を持つようになり、「すきや」というようなよび方が生まれてきます。利休の先生であった紹鷗/JOOHのころから、いわゆる書院建築といわれる、格式のある、室町時代から引きついだ建築様式のままでは「わび」を主とするお茶にはふさわしくない、という考えが生まれてきたようで、紹鷗や利休は、書院式の建物の構成から茶室を離していこうとします。平凡で自然で簡素な構成を望んだのです。そして、当時の町なかの家や農家にありがちな、草ぶきやこけらぶきの、柱には丸太を使い、壁は土壁でできた、ありふれた建物の中に、茶席の原形を見いだしました。こうして、草庵様式の茶席が生まれるのですが、これはその当時の一般的な茶席の建築様式から見ると、大きなチャレンジであったと思われます。信長や秀吉によって、金銀まばゆい城や豪華な意匠と装飾を持った書院造りの御殿が盛んに作られていた時代に、いなか家そのままに見える建物を作り、しかも当時の権力者たちをそこに招き、主客が同座して一碗のお茶を相伴したということから、茶道に対する思いの深さを感じることが出来ます。

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