利休七則の中にある茶道の心 (利休七則④)
今回も引き続き利休七則の中にある茶道の心について話したいと思います。今回は以下の二つです。
6. 降らずとも傘の用意
利休が、どんなときにも落ち着いて、臨機応変の処置ができる心の準備と、実際の用意を常に怠らないことが茶人の心がけである、と説いているのが、「降らずとも傘の用意」です。利休の長男道安が、ある春の日、蒲生氏郷(KAMO-UJISATO)、細川三斎(HOSOKAWA-SANSAI)、芝山監物(SHIBAYAMA-KENMOTSU)と利休の四人を茶会に招く約束をしていました。その前日、利休が道安のもとを訪れたところ、主人の道安はあいにく留守で、家の者がいそがしく準備に立ち働いているところを目にしました。そして、茶席に入った利休は、何を思ったのか、炉中の灰を炉辺にまき散らし、そのうえ炉壇を欠いて帰ってしまいました。そのあと道安は戻りましたが、利休の行為に驚くこともなく、早速に畳を敷きかえさせ、風炉の趣向にして客を招く準備をしました。翌日、招かれた客は利休に「今ごろの季節に風炉の茶では、少々早過ぎるのではありませんか」と尋ねました。利休は、「風炉は四季ともに嫌うものではありません。今日の亭主は、茶の湯をよく学んでいるのですね。」と褒めて、次のような説明をいたしました。「道安はお歴々衆をお招きし、昨年から使っている炉でお茶をさし上げたのでは、あまりにも春の季にふさわしくないと思い、風炉の茶にしたのでありましょう。その趣向は素晴らしいはたらきであると自分は思います。」利休の意地悪ともとれる行為を受けとめ、それに対処する道安のはたらきは、利休をうならせるものがありました。お茶を習うものは、このようにいついかなるときにも適切に場に応じられるだけの心の落ち着き、いわば柔らかい心というのでしょうか、自由な素直な心を持つことが大切と、教えています。
7.相客に心せよ
利休が銭屋宗納 (ZENIYA-SONO)という商人を正客にして茶事を開いたときのことです。そこへ、今をときめく大名の木村常陸介 (KIMURA-HITACHINOSUKE)という人が尋ねてまいりました。茶事が催されているのなら、これ辛い、自分も客のひとりに加えてほしいと利休に申し出ました。利休は、きょうは宗納を正客にしての茶事ですから、末席でもよければお加えいたしましょうと答えました。常陸介は、もちろんそれで結構と、なんのわだかまりもなく、末客として仲間に加わり、とてもなごやかな茶席となりました。草庵の作法、天下の人かくのごとし、休(利休のこと)の清風にしたがい、貴賤一同露地の本意を行われしを、寺院の清規にまさりて尊かりし也と‛南方録’に書かれています。木村常陸介といえば、秀吉配下の大大名です。どんな権力者でも、すでに正客が決まっていれば、当たり前のことの様に末席に迎え、茶事の次第、茶の精神を守りとおして、権力者を特別扱いすることなく振る舞った利休の雄々しさもさることながら、平然として末客の座につき、茶を楽しんだ常陸介という武人の人となりに強い感動を覚えます。この話には二つの精神が表れています。ひとつは、人間は平等であるという茶道の思想であり、もうひとつは、利休七則のなかの「相客に心せよ」ということです。亭主も客も、互いに尊重しあい、楽しいひとときを過ごすことこそ「和敬」なのです。